日出ずる国への伝言#2 N.Yさん

日出ずる国への伝言

Messages for the sun-rising country.

#2 N.Yさん

難民(’92年より日本在住)

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自立した難民を目指します。



難民 - 皆さんご存知の言葉だと思います。「戦争や宗教・民族対立、宗教的迫害などの理由により、居住地域を追われた人々」というのがその定義ですが、国際ニュースの中だけの話だと思われる方は多いと思います。私もつい最近まで、その一人でした。
N.Yさん。約20年間もの間、難民としてこの日本で生きてきました。日本には、そんなN.Yさんのような人が何百人と存在しています。そして、一刻も早く難民認定を受け、強制送還の恐怖におびえること無く暮らすことを願う人たちは、その背後に何千人といます。彼らは、この日本で息をひそめるように暮らしています。

今回は、N.Yさんの顔写真や本名、出身地は明かしません。それだけ特別な事情がある中で、インタビューの許可を得ました。N.Yさんの話せる範囲のことを、最大限に掲載しましたので、ぜひ「難民の声」に耳を傾けてみてください。


N:N.Yさん T:徳橋功(My Eyes Tokyo主宰)



English





隣の人は、殺された。

T. NYさんは、ある国で民主化運動に参加されました。そしてご自身がその国では少数民族に属していました。そのような経緯から、大変辛い思いをされたと聞きました。その後日本に逃れてきたわけですが、それまでの経緯を教えていただけますか。
N. 私は昔、大規模な民主化運動に参加しました。それに参加した人たちは、当時の学生も含めて、今、日本に住んでいます。
私は運動の時、私たちは自分たちの民族の主張を書いたプラカートを持ってデモ行進しました。私はプラカートに顔の下半分が隠れていたので、当局から顔を判別されることは無かったのですが、行進で隣を歩いていた人は殺されました。当局は私たちの写真を撮っていたんです、誰がデモに参加しているのかを調べるために。
その後、彼らは私の家に来ました。私は隣国に逃げました。でもその国の軍は国境を越えて来ました。「ここでも安心できない」と思いました。そこへ、私よりも一足先に日本に逃れた友人が教えてくれました。「日本は安全だ」と。夜に一人で街を歩いても大丈夫だし、いつでもどこへでも外出できて、自由にしゃべることができる、と。
それは私が当時読んでいた本にも書いてありました。「日本は犯罪率が世界でも一番低い部類に入る」。”自由””安全”という言葉が、すごく心に響いたんです。その上、当時の日本はビザ取得がそれほど難しくなかった。それで日本に来たんです。




自由の国ニッポン。

T.「日本は安全だ」と言ってくれたお友達は、何人くらいいたんですか?
N. 一人です。別の友達もいましたが、その人はドイツに行きました。その人はドイツに観光ビザで行きましたが、ドイツ人の風貌と私たちのそれは大分違いますから、それで差別を受けたようです。「誰かに声をかけても返事をくれなかった」と言っていました。
T. Nさんが日本に来た時は、お一人でしたか?
N. そうです。
T. その時、どう思いましたか?
N. 聞いていた通りの、自由な国だと思いましたね。でもいざ暮らすとなると、物価が高いし、文化も私の国とは全然違いました。でも頑張るしかないから、とにかく無我夢中でした。




「日本がダメなら、アメリカに連れて行って」

T. 難民申請から難民認定まで、どのくらいかかりましたか?
N. 2年です。私より前に申請した人たちが難民認定されませんでしたから、申請する時は緊張しました。もし認定されなかったとしても、故郷には絶対に帰れません。だから、認定を待つ間は辛かったです。
私は入国管理局にお願いしました。「もし申請が通らなかったら、アメリカに行かせてほしい」と。なぜならアメリカには、私の一番上の姉がいるからです。
T. そもそも日本に来た時は、どんなステータスだったんですか?
N. 観光ビザでした。
T. パスポートは、すでに持っていたんですか?
N. 持っていました。私の国の政府は、民主化運動をしていた人たちを、むしろ国外に出したかったようです。だからパスポートが欲しいと言えば、すぐくれました。
T. とにかく「どこか外国に行こう」と思っていたんですね。
N. そうです。その国にいたままだと、世界の人たちの考え方が分からないですから。兄がニューズウィークやリーダーズ・ダイジェストをよく読んでいて、世界で起きていることを私に教えてくれました。それで、私の国があらゆる面で世界より遅れていることを知りました。電話は当局に傍受されているから話には気をつけなくちゃいけないし、手紙もハサミで開封して内容を検査されるんです。




働き詰めの毎日。

T. 日本に来てから、どんなお仕事に就いたんですか?
N. 最初の半年間は仕事がありませんでした。日本語が全然話せませんでしたから、まずは独学でひらがな・カタカナを勉強しました。それらは3週間くらいでマスターしました。
その後、上野にあるイタリアンレストランで働き始めました。すごく忙しかったです。
T. その職場は、どうやって見つけたんですか?
N. 私と同じ民族が集まる宗教施設が東京にありました。そこに通っていた友達が日本人と知り合いで、その方から紹介していただきました。その頃は難しい字が読めなかったし、全然言葉が分からなかったんですけど、お店から「メニューを全て覚えて下さい」と言われました。だから毎日、夜中までメニューを読んでいました。
T. そのお店では、何年くらい働いたんですか?
N. 5年くらいです。その後、丸の内にあるおそば屋さんで仕事をしました。朝10時から夜11時まで、平日は毎日働きました。
すごくお世話になった友達が、そのおそば屋さんの隣の店で働いていました。だからよくおそば屋さんのご主人と顔を合わせていたんですね。それでご主人が「バイトが必要だから、誰か紹介してもらえませんか」と言ったのを友達が聞いて、私のところに話が来ました。
そのご主人は戦争体験者で、彼も戦地から逃げる時に中国の人に助けられたと言っていました。外国で暮らす人の辛さが分かる、と言ってくれました。他の店員さんもすごく優しくて、まるで家族のようでした。



”カッコイイ難民”を目指す。

T. 反対に、日本で辛い経験をしたことはありますか?
N. あったと思います。日本人の友達の中には「この人、難民なんだ」と私に対して感じている人がいました。今でもそのような思いを、私に対して持っている人がいるのを感じます。
難民のことをよく知らない日本人が多いと思います。だから「難民は日本に来て、NGOからただ援助を受けているだけなんだ」と、私たちを下に見る傾向があります。私に対してそう言ってきた人に、私は喫茶店で何時間も説明しました。「難民って、どういう意味か知っていますか?」から始まって、自分たちの居場所が無くなったから日本に来たことなどを話しました。そうしたら向こうが「ごめんなさい、許して下さい」って謝ってくれました。
でも、そういう人がいるかと思えば、説明することで離れていった人もいました。だけど私は負けません。私が目指しているのは「カッコイイ難民」です。日本語をもっと勉強して、手に職をつけて、自立した生活ができる難民を目指して頑張ろうと思います。




NYさんにとって、日本って何ですか?

自分の人生の半分近く日本にいますから、第2の故郷です。

ただ、これはまだ心配しなくて良いかもしれませんが、私が老後を迎えるとき、日本は私たち
難民に対してどのように援助してくれるのか不安です。それに、子どもがいる難民もいますから
その子たちの未来がどうなるか、ですね。

でもやはり第1の故郷は、私の国なんです。絶対に帰れないんですけどね。だけど、せめて民主化されてほしい。そのために
皆さんの力が必要ですので、よろしくお願いいたします。










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